バロック音楽は1600年10月6日から1750年7月28日までの時期です。 1600年10月6日は初オペラが上演された日です。1750年7月28日はバッハが世を去った日です。 バロック音楽はオペラの誕生から始まったので、バロックの音楽史をオペラからスタートしましょう。 オペラ オペラは演劇と音楽によって構成される舞台芸術です。オペラは歌劇とも呼ばれています。 言葉の由来は「オペラ」(opera)という単語はイタリア語で「作品」を意味します。同じ意味のラテン語「opus」です。単数属格形 operisの複数形主格「opera」に由来します。 幕間劇・インテルメディオ 幕間劇・インテルメッツォ(Intermezzo)またはインテルメディオ(intermedio) 幕間劇のことをインテルメッツォと呼びます。しかし、これはピアノで弾く「間奏曲」と違います! 幕間劇・インテルメディオとは、イタリアのルネサンス音楽において、劇の幕の間に演じられる音楽のことです。 ルネサンスの劇中に、幕と幕の間に音楽と歌を少し入れることが多くなりました。ソロの歌手と伴奏の組み合わせが一般的でした。 インテルメディオには歌手が劇のストーリについてコメントを語って歌います。 幕間劇・インテルメディオの音楽が段々豪華と美しくなりました。すると演劇より歌の方が人気になりました! 演劇のお客さんが音楽だけを聴きたいという声もあったので、インテルメディオが演劇から独立してオペラの先駆けになりました。 1つのインテルメディオを聴きましょう。 1586年にメディチ家の結婚式に演じた劇「ラ・ペレグリーナ」(La pellegrina)のために6人の作曲家がそれぞれ1曲のインテルメディオを依頼されました。 その第1番のインテルメディオは天球の調和. 高き天球より(Dalle più alte sfere) 作曲:ミリオ・デ・カヴァリエーリ(Emilio de' Cavalieri, 1550年 - 1602年) カメラータ ルネサンスの後期に(1575年~)イタリアのフィレンツェに「カメラータ」という学者の集まりの集会・サークルがありました。 このカメラータまたは「カメラータ・デ・バルディ」(Camerata de' Bardi)とはフィレンツェの音楽家、詩人、貴族、学者やその他の知識人が、ジョヴァンニ・デ・バルディ伯爵の邸宅に30年間に渡って定期的に集って音楽とその将来や目的などについて議論していました。 先ほどのインテルメディオの作曲家ミリオ・デ・カヴァリエーリもカメラータのメンバーでした。あの有名のガリレオ・ガリレイの父ヴィンチェンツォ・ガリレイもメンバーでした。 カメラータによると、当時のルネサンスの音楽は難しくて不自然で分かりにくいという評判でした。 「なぜ私たちはルネサンス音楽を聴いて感動出来ないか」とカメラータの人たちが悩んでいました。 カメラータが昔の「古代ギリシャ音楽」を研究しました。 古代ギリシアの哲学者たちが音楽の不思議な力と音楽の強い影響力について書いていました。 この音楽の力や感情の表現・・感情を呼び起こす、インパクトとの強い表出力をもつ音楽をカメラータが求めていました。 カメラータの研究の結果によると・・古代ギリシャの悲劇の役者がセリフを話さないで全て歌っていました。 ということは・・台本のセリフを歌うように表現すればお客さんが音楽に感動できるだ! カメラータが考え出したのは歌うと話すの間のような歌のスタイルです。 レチタール・カンタンドrecitar cantando(語りながら歌う)という言葉があります。 その音楽のスタイルをこれから復興したいっとカメラータが思いつきました。 難しい不自然な多声音楽ではなく、人間が自然に話すように歌えば音楽が心にもっと響くっとカメラータが考えました。 作曲のためにカメラータが3つのポイントを作りました: 1.歌詞をはっきりと分かり易く伝えることです。ソロの歌とシンプルの伴奏だけが良いです。 2.演劇の台本を話すように歌います。言葉の何度も繰り返しをしないことが良いです。 3.旋律は歌手の気持ちを伝えるべきです。 今はこの歌の歌唱様式は「レチタティーヴォ」と言います。 レチタティーヴォの特徴は: ★ 旋律を声の自然の動き(ピッチ)やリズムのように作曲します。 ★ 難しい多声音楽ではなく、一人のソロと簡単な伴奏だけの方が美しいです。 これは「モノディ」と言います。独唱に伴奏楽器を伴う音楽。 ★ レチタティーヴォの伴奏は一般的に「通奏低音」(Basso continuo) だけの伴奏になります。 これはレチタティーヴォ・セッコ(recitativo secco=乾いたレチタティーヴォ)と言います。 ★ 言葉や文書の繰り返しをしないようにします。例えば、ルネサンスのマドリガーレに言葉の繰り返しがとても多いでした。 ★ 言葉は現在形になります。レチタティーヴォは現在を語っています。(アリアと違います。アリアは17世紀の後期に誕生します) レチタティーヴォはオペラにとても大事な歌唱様式の一種です。レチタティーヴォと50年後のアリアはオペラの柱になります。 マドリガーレ 対 レチタティーヴォ ルネサンスを代表するマドリガーレとバロックのレチタティーヴォを比較しましょう。 クラウディオ・モンテヴェルディという作曲家について以前のルネサンスの音楽史の記事に書きましたね。「音楽史10 ルネサンス後期-世俗音楽」 実は、モンテヴェルディはルネサンスとバロックの両方を代表する作曲家です。 彼は2つのスタイルを使って作曲していました。ルネサンス風(1)とバロック風(2): ★ 「第一作法」(prima pratica)は伝統的な作曲法です。16世紀ルネサンスのスタイルです。ポリフォニー、不協和音が多いです。 ★ 「第二作法」(seconda pratica)は新しい感情表現を目指すオペラのスタイルです。声部の中でソプラノとバスに重点がおかれる。 ホモフォニー:ソプラノとバス・・メロディと伴奏の様式を大事する音楽はホモフォニーと言います。 バロックはポリフォニーのイメージがありますね。後期のバッハの作品にはポリフォニーが多いですが・・ バロック初期と中期にはホモフォニーの音楽の方が多いです。 クラウディオ・モンテヴェルディのマドリガーレとレチタティーヴォを聴きましょう。 モンテヴェルディが「アリアンナの嘆き」の旋律を使ってマドリガーレとレチタティーヴォを作曲しました。 同じメロディですがマドリガーレは「第一作法」のルネサンス風に書かれています。 レチタティーヴォの方が「第二作法」のバロック風に書かれています。 同じ作曲家・・同じメロディですが、2つのスタイルや様式です! マドリガーレ「アリアンナの嘆き」Lamento d'Arianna レチタティーヴォ「アリアンナの嘆き」Lamento d'Arianna 1曲目のマドリガーレは素晴らしい曲ですが洗練されているので言葉の感情が(知識がないと)伝わってこないです。 しかし、レチタティーヴォの方がそのまま感激します!曲の感情が分かり易くなりました。歌手が歌っている感情を私たちも感じられる。 歌手や奏者とお客さんが一体になります。彼女の悲しみは私たちの悲しみになります。音楽はより親密になりました。 バロックになると同情・同感を出来る音楽になりました。扉を開いて新しい芸術の世界が広がります。 初のオペラ ルネサンス後期のインテルメディオやレチタティーヴォなどの色々の実験の後にいよいよオペラの誕生です! ヤコポ・ペーリ(Jacopo Peri 1561年 - 1633年) ペーリはカメラータのメンバーでした。彼はカメラータで作家オッターヴィオ・リヌッチーニと知り合いました。 オペラだと①作曲家の音楽と②作家のリブレット(台本)が必要です。 オペラの台本・歌詞は、作曲家とは別の人間が書きます。それも高名な詩人や作家が多いです。 オペラの台本を書く人は「リブレット作者」や「リブレッティスト」と呼びます。 ペーリとリヌッチーニが演劇と音楽を合わせて新しい様式「オペラ」を作りました。 作品『エウリディーチェ』(L'Euridice)は1600年10月6日に上演されました。これは現存する最古のオペラ作品です。 リヌッチーニはオペラの台本をギリシア神話「オルフェウスとエウリディーチェ」に基づいて書きました。 ギリシア神話の中で最も有名な恋愛ストーリです。 作品にはモノディの様式のレチタティーヴォがとても多いです。「アリア」はまだ50年後に誕生します。 オペラのあらすじ(ウィキペディアより) プロローグ 「悲劇」と名付けられた登場人物により、王室の婚礼に対する祝福の言葉が歌われる。 トラーキアの野 オルフェオとエウリディーチェの婚礼の場面から始まる。エウリディーチェが自らの幸福な気持ちを歌い、仲間のニンフたちともに去る。オルフェオが友人たちと現れ、「過去の苦しみも今は幸せに変わった」と歌い、ティルシが婚礼の神を称えて「こよなく美しい星が清らかに燃える中で」と歌う。しかし、ダフネーが現れて、エウリディーチェが毒蛇に脚を噛まれて死んだ、と告げる。オルフェオはエウリディーチェを取り戻しに行く決意を固め、「私は泣かない、嘆かない」と歌う。 この歌"Non piango e non sospiro" を聴きましょう: 地獄(黄泉の国) オルフェオは、女神ヴェーネレの導きで地獄(黄泉の国)の入口にたどり着く。ヴェーネレは、「あとは自分の音楽の力で進むように」と告げて立ち去る。オルヴェオが「私の涙に泣け、地獄の霊たちよ」と歌うと、地獄の王プルトーネは憤るが、オルフェオの歌声に感動したプロセルピナやカロンテに促され、地獄の掟を破り、オルフェオにエウリディーチェを返す決断をする。 トラキアの野 友人たちがオルフェオの安否を気遣っていると、エウリディーチェを連れてオルフェオが現れる。オルフェオは「私の歌に喜べ、緑の森よ」と歌い、エウリディーチェが続いて「この喜ばしい大気の中で」を歌う。一同がオルフェオの音楽の素晴らしさを讃えて幕となる。 初の天才オペラ ペーリのオペラはとても良い曲ですが・・クラウディオ・モンテヴェルディは1607年に最初の素晴らしいオペラ『オルフェオ』(L'Orfeo)を作曲しました。音楽はよりナチュラルと旋律的、歌詞もより詩的になっています。ペーリの感情表現は少し固く感じますが、モンテヴェルディのオペラにはオルフェオが歌っている歌詞がジ~ンと来ます。ペーリのオーケストラはとても小さくて4~6名ですが・・モンテヴェルディのオーケストラは豪華です。オルフェオにはなんと40人以上のオーケストラが必要です! モンテヴェルディが古いマドリガーレのスタイル「第一作法」、新しいモノディのスタイル「第二作法」とダンスのスタイルを上手に組み合わせて素晴らしいオペラを作りました。モンテヴェルディのレチタティーヴォは固くないです。旋律的と劇的なインパクトがある強い感情表現の音楽になっています。 オペラのストーリはペーリのオペラと同じですが、今回の台本作者はアレッサンドロ・ストリッジョです。 『オルフェオ』(L'Orfeo)の簡単なあらすじ 【1幕-2幕】 エウリディーチェは結婚式の直後に毒蛇に噛まれて死んでしまいます。 夫のオルフェオはエウリディーチェを返してもらうために、黄泉の国へ行きます。 【3幕-4幕】 オルフェオはエウリディーチェを返してもらいますが、「現世に着くまで妻を振り返ってはいけない。」という条件が付けられます。 オルフェオはその条件を破り、エウリディーチェは再び黄泉の国へ帰っていきます。 【5幕】 嘆き悲しむオルフェオのもとに、オルフェオの父・太陽神アポロが現れます。 そして二人が天に昇っていくところでオペラが終わります。 オペラのあらすじ:https://tsvocalschool.com/classic/orfeo/ 先ほどペーリのオペラを聴きましたね。エウリディーチェが毒蛇に脚を噛まれて死んだのお知らせを聞いたオルフェオのシーンでした。 モンテヴェルディのオペラの中で同じシーンを聴きましょう。 このオペラの最も有名なシーン:エウリディーチェの死を受けてオルフェオ。 オルフェオがここで歌う: "Tu se’ morta" 「お前は死んでしまった」 この歌唱スタイルは「レチタール・カンタンド」(語るような歌)です。 セリフを長く引き伸ばした朗唱みたいなものです。 他のオペラ モンテヴェルディは「オルフェオ」を1607年に作曲しました。 次の年1608年にモンテヴェルディが「アリアンナ」というオペラを作曲しましたが、このオペラはほとんど失われています。 レチタティーヴォ「アリアンナの嘆き」しか遺されていないです。「マドリガーレ対レチタティーヴォ」の音源を先ほど聴きました。 モンテヴェルディはオペラを全部で19作品を書きましたが、残念ながら6作品しか残っていないです。 1642年「ポッペーアの戴冠 」L'incoronazione di Poppeaはモンテヴェルディの最後で最高のオペラです。 この35年間でオペラがとても成長しました。オルフェオの音楽はまだ少し古く聞こえますが、ポッペーアの戴冠はもっとモダンとより旋律的に聞えます。ポッペーアの戴冠から少し聴きましょう: ヴェネツィア 最初のオペラハウス 1637年にヴェネツィアにサン・カッシアーノ劇場 "Teatro San Cassiano" が出来ました。 これはとても大きな出来事です。ヨーロッパに次々に公衆オペラハウスが出来ます。 オペラは今まで貴族の為に作曲されました。公邸の中で上演されました。公邸の中ですが、少人数でスケールは小さいでした。勿論、一般の人が見に行けませんでした! 貴族の為に書かれたオペラのテーマや台本は文学的で難しいです。難しい古代ギリシア神話のテーマは一般の人にとってあんまり遠くて関心できないテーマでした。 1637年に公衆オペラハウスが出来たおかげで一般の人が入場券を買えばオペラを見に行けるようになりました。 これから、オペラが段々商業的なビジネスになります。ステージや大道具も段々複雑になります。 1645年にヴェネツィアに行かれたある観光者の手紙による: ・・立派な大道具でステージに立体感があって、 歌手たちがロープでステージ上に飛んでいる、雲の上に座って歌っている神様・・馬車が空中に飛んでいる・・波、風、火、船、嵐など複雑な特殊効果がすごいでした!・・ 公衆オペラハウスの影響でオペラはこれから民衆の為に書かれようになります。 オペラはもっとエンターテインメントらしく(内容はシンプル、分かり易く、楽しく)作曲されます。 オペラ・セリア & オペラ・ブッファ (Opera Seria & Opera Buffa) 公衆オペラハウスの影響で17世紀の後期からオペラが2つのスタイルに分けられました。 オペラ・セリアは高貴かつ「シリアス」なイタリア・オペラのことです。オペラのストーリと台本の内容は難しくて真面目です。イタリアの海外で作曲されても、言葉は必ずイタリア語です。 オペラ・セリアの作曲家にはスカルラッティやヘンデルなどがいる。 オペラ・ブッファはナポリで生まれた即興的なコメディア・デラルテを手本とした喜劇的なオペラです。コメディア・デラルテからのストック・キャラクターも使います。例えば「アルレッキーノ」など。 オペラ・セリアが王侯や貴族のために作られた贅沢な娯楽であったのに対し、オペラ・ブッファは庶民的で、 より身近な問題を取り扱うものであった。カストラートの使用はオペラ・ブッファには少ないです。 カストラート 1600年~1800年 カストラート(去勢された男性歌手)は元々中東からスペインやイタリアに入って来た伝統です。カストラートは、バロックオペラにとても人気があって、歌手の中に給料が一番高い歌手でした。貧しい家庭で生まれたカストラートが多いでした。男の子を去勢させれば有名な歌手になれるチャンスを与えたいと思っていた親がいました。又は、孤児もカストラートにされました。 カストラートはオペラ・セリアと貴族に人気がありましたが、庶民的なオペラ・ブッファにはカストラートの登場が少ないでした。 カストラートがオペラでも教会でも歌っていました。女性が上演できないところにもカストラートが使われていました。 カストラートは南ヨーロッパだけでした。プロテスタントの北ヨーロッパにはカストラートが禁じられました。 1720年~1740年のころはピークでした:毎年に4000人の少年が去勢されました。 去勢の手術で死亡した少年が多くいました。または、手術のあとに被害も多くありました。とても残酷な伝統です。 イタリアでは1870年、ローマのバチカンでは1903年までカストラートを使用していました! 現在は代わりにカウンターテナが登場します。彼は裏声(ファルセット)や頭声を使って歌います。 1994年の映画の『カストラート』(Farinelli)からのシーンです。 アリア 17世紀の前半のオペラのスタイルはレチタール・カンタンド(語りながら歌う)でした。 しかし、17世紀の後期にアリアが段々重要になってきます。 ★ レチタティーヴォには言葉は一番大事です。劇に関するコメントような語り方です。時間の流れは現在です。 ★ アリアには言葉より旋律は一番重要です。歌手の気持ちを表現することはアリアの目的です。時間の流れが止まっています。 バロックの後期にレチタティーヴォが段々減ります。人気のオペラ・ブッファにもレチタティーヴォが少ないです。 18世紀からオペラにはアリアが中心になります。それでも、レチタティーヴォとアリアがオペラの2つの重要な柱です。 ヨーロッパ オペラは1600年にイタリアのフィレンツェに生まれたが、17世紀の後期に段々ヨーロッパ中に広がります。 イギリス イギリスには演劇の文化がしっかりありました。 劇作家ウィリアム・シェイクスピア(1564年-1616年)はイギリス・ルネサンス演劇を代表する人物です。 初のおぺら「仮面劇」 イギリスの初オペラは1683年にジョン・ブロウ(John Blow , 1649年-1708年) に作曲された。《ヴィーナスとアドニス》Venus and Adonisというオペラです。「オペラ」の言葉がイギリスにはまだ流通なかったので、作曲家ブロウが作品を「仮面劇」と呼んでいました。 ヘンリー・パーセル(Henry Purcell、1659年-1695年) ジョン・ブロウの作品の6年後にイギリスを代表する素晴らしい作曲家パーセルがオペラを作曲しました。 パーセルはジョン・ブロウの弟子と友人でした。 パーセルはモンテヴェルディとヘンデルとバッハを並べてバロックを代表する偉大の作曲家です。 パーセルはわずかの35~36歳で世を去った。 特にパーセルのオペラ「ディドとアエネアス」(Dido and Aeneas)1689年は名作です! このオペラの終幕のアリア『私が土の下に横たわるとき』とその歌詞「わたしを忘れないで」はとても有名で感動的なラストシーンです。 ストーリは古代ローマの詩人ヴェルギリウスの叙事詩【アイネーイス】に基づきます。 トロイの王子エネアスとカルタゴの女王ディドの悲愛を題材にしています。 あらすじ カルタゴの女王ディドは、彼女の軍隊が海から難破して救出した、トロイからの宿敵の王子アイネアスと恋に落ちた。 ディドは、敵対する2つの王国を結びつけるために、トロイの戦いで亡くなったばかりの夫を悼みつつも、 アエネアスとの結婚を決意する。彼女はアエネーアスと恋に落ちる。 しかし、魔術師や魔女などの闇の勢力がこの結婚に反対する。 彼らはアエネアスの前に精霊を出現させ、ジュピターの名のもとに出航してカルタゴを去るように頼みます。 心を痛めたエネアスは、重い気持ちでディドに使命と自分の決断を説明する。 彼女の苦しみを知った彼は、命令に従わないことを決意する。 しかし、ディドはもう興味がない。アイネアスが彼女との別れを考えたというだけで、 彼女にとっては愛を断ち切る理由になる。ディドはただ死にたいだけなのだ。 彼女は妹のベリンダを頼り、自分の手で死んでいくのです。 アリア『私が土の下に横たわるとき』 グラウンド・バス アリア『私が土の下に横たわるとき』はグラウンド・バスを持っています。 グラウンド・バス:曲中に何度も反復される低音です。オスティナート・バスとも言います。 ラメント・バス:イタリアの作曲家カヴァッリ(モンテヴェルディの弟子)がラメント・バス "Lamento Bass" をよく使います。 これは繰り返すのオスティナート・バス(下降進行)の上に嘆きや悲しみを表す嘆きの歌があることです。 また中期バロック以降では、オスティナート・バスを用いた器楽・独奏作品を「パッサカリア」や「シャコンヌ」と言います。 楽譜を見ますと上の5線は歌です・・下の5線は伴奏です。この伴奏は「通奏低音」(Basso continuo) です。 伴奏を即興で弾きますが、和声が決まっています。和声を数字で表します:6/5 , 4/2 , 7 , 6 , 7# など 例えば:"Trouble"の下にファ#と7/5と書いてある。これはファ#-ラ-ド-ミ♭の減七和音です。悩みの歌詞は不協和音で表します。 Word Painting 「Word Painting」は歌詞の言葉を文字通りに音楽で表現することです。 音楽史10「ルネサンス後期-世俗音楽」について書きました。マドリガーレの中にWordPaintingがよく使われます。 ここのアリアにもパーセルがWord paintingを使っています。 "Trouble" 悩みのところに:不協和音が現れます。 悩みをミ♭-ラで歌います。下がった減5度です。言葉の感情(悲しみ)を表す音程です。 ”Laid” 大地に横たわるのところシーラ下がった2度をレガートに。下に入れるようなWord paintingです。 When I am laid in earth, 私が大地に横たわるとき May my wrongs create 私の過ちが No trouble in thy breast; 汝の胸に悩みが生じぬように。 Remember me, but ah! forget my fate. 私を思い出し、しかし、ああ、私の運命を忘れてください。 アリア前のレチタティーヴォとディドの嘆き『私が土の下に横たわるとき』(1'10)のアリアを聴きましょう。 もう1つのラメント・バスを聴きましょう: モンテヴェルディ作曲 マドリガーレ「ニンフの嘆き」のラメント・バスも有名です。 フランス 1650年頃にオペラのがイタリアからフランスへ渡りましたが、フランス人にあんまり人気がありませんでした。 イタリアの有名の作曲家ピエトロ・フランチェスコ・カヴァッリ(モンテヴェルディの弟子)がルイ14世にフランスへ呼ばれて、2つのオペラを依頼されました。オペラがフランスの音楽界に影響がありましたが、イタリアのスタイルはルイ14世やフランス人の趣味ではなかったようです。 イタリアのスタイルはフランス人のお好みに合わないでしょうか? 2つの理由を考えられます: フランス人の愛国心が強くてイタリアに対する競争の気持ちがあります。 既にフランスに2つの独自のオペラようなスタイルがありました:バレ・ド・クール & 叙情悲劇 ★ バレ・ド・クール(Ballet de cour , 宮廷バレエ) バレ・ド・クールは宮廷で演じられたバレエと音楽と歌のミックスです。 フランス人の趣味に合います。軽くて・・ダンスが多くて・・舞曲のリズムが多くて・・明るい内容・・エレガントな舞台芸術です。 ★ 叙情悲劇(tragédie lyrique)または 音楽悲劇(tragédie en musique) このジャンルには通常、古代ギリシア・古代ローマの神話に基づいて作られています。イタリアのオペラと違って物語の結末は悲劇的ではなくハッピーエンドで終わることが多いです。物語には王の高貴さと戦での勇敢さを讃美することもよくあります。 典型的な叙情悲劇は5幕ものだった。5幕それぞれが基本的なパターンに従って書かれた。 ★主要登場人物の1人がその感情を表すアリアで幕を開け、 ★短いアリア(petits airs)が散りばめられたレチタティーヴォの対話が続き、その中で事件が起こる。 ★各幕は合唱やバレエ団の見せ場であるディヴェルティスマンで締められた。 バレ・ド・クールと叙情悲劇の2つのスタイルを合わせて、その上にイタリアのオペラの影響も少し受けてフランスの独自のオペラスタイルが生まれました。このスタイルを代表するふたりの作曲はリュリとラモーです。 ジャン=バティスト・リュリ(Jean-Baptiste Lully , 1632年 - 1687年) ルイ14世の宮廷楽長および寵臣として勤めていました。 元はジョヴァンニ・バッティスタ・ルッリ(Giovanni Battista Lulli)という名でイタリア人だったが、1661年にフランス国籍を取得して、名前がリュリになりました。 リュリのオペラ・叙情悲劇「カドミュスとエルミオーヌ」(1673年)を聴きましょう。 イタリアの劇的な感じより・・フランスらしい豪華とエレガントなオペラ・叙情悲劇です。 軽やかなリズムとダンスに合わせた上品で洗練された旋律はフランスオペラの魅力です。 ジャン=フィリップ・ラモー (Jean-Philippe Rameau, 1683年 - 1764年) リュリ以外で、叙情悲劇の著名な作曲家といえばジャン=フィリップ・ラモーです。 この形式で書かれた5つの作品はこのジャンルの最高傑作と見なされている。 「優雅なインドの国々」Les Indes galantes(1735-36年)を聴きましょう。 これはモダンのパフォーマンスですが、フランスのオペラの楽しさが伝わる上演だと思います。 最後に お勧めのビデオ:43分間パーセルのオペラから一番美しい歌曲を聴きましょう。 10. インドの女王 Ah, How happy Are We (1695) 00:03 9. 来たれ、汝ら芸術の子よ Strike The Viol, Touch the Lute(1694) 02:06 8. 愛の女神、必ずや盲目たらん Sweetness of Nature, And True Wit (1692) 06:49 7. Long May She Reign Over this Isle - Love's Goddess Sure Was Blind (1692) 09:33 6. 聖チェチリアの祝日の頌歌 (1692) 12:21 5. 妖精の女王 If Love's a Sweet Passion (1692) 16:09 4. アーサー王 Fairest Isle (1691) 24:08 3. 聖チェチリアの祝日の頌歌 Thou Tun'st this World (1692) 28:08 2. アーサー王 Passacaglia: How happy the lover (1691) 33:23 1. 嬉しきかな、すべての愉しみ Here the Deities Approve (1683) 39:19